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(2004/03)


[ 「六然」(りくぜん) ]
 自處超然(ちょうぜん)。
 人處藹然(あいぜん)。
 有事斬然(ざんぜん)。
 無事澄然(ちょうぜん)。
 得意澹然(たんぜん)。
 失意泰然(たいぜん)。
       
    −−−明・崔後渠

自処超然:自ら処するには超然。
 人間というものは自分の問題となると、いろいろものにとらわれて 複雑になり、執着したり拘ったりたりするものである。したがって世俗に囚われず、超越しなければならない。

処人藹然:人に処するには藹然。
 人に遇するには、常に好意を持ってなごやかに接しなければならない。

有事斬然:有事には斬然。
 何か問題がある時、うろうろしたり、うじうじしたりしないできびきびと対処しなければならない。

無事澄然:無事には澄然。
 何もない時は、氷のように澄みきっておること。
    
得意澹然:得意のとき澹然。
得意の時は威張ったり驕ったりするものしてはいけない。淡々とした気持ちを抱かなければならない。

失意泰然:失意のとき泰然。
 失意のときは、ばたばたせずに泰然自若としなければならない。 
 
 この「六然」は 明の陽明学者崔後渠(さいこうきょ)の作で古来、人間がその境地に達すれば、真の自由人になれるといわれる。
2004/03/31(Wed) 晴れ


[ 十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人 ]
 一年之計、莫如樹穀;
 十年之計、莫如樹木;
 終身之計、莫如樹人。
      ――管子『権修』


 一年の計には穀を樹(う)うるに如く莫(はな)し。
 十年の計には樹を樹(う)うるに如く莫(はな)し。
 終身の計には人を樹(た)つるに如く莫(はな)し。
      ――管子『権修』

 穀物を育てるには一年の計があれば十分である。
 樹を育てるには十年の計が必要となる。
 人材を育てるには一生の計を立てなければさまにならないのだ。

 管子はこの話のなかで、賢人を育てるには如何に難しく、時間をたっぷりかける必要があると説いてある。この話から、「樹人」(じゅじん)という漢語が生まれた。樹人、人材を育てる。転じて賢人を官吏としてあげ用いるに意味する。
2004/03/30(Tue) 曇り


[ 異文化ショック 下 ]
 僕自身も、支店務めのとき、このようなことがあった。ある日、支店長室にお客様が入っていた。席が近い僕が支店長に誰かお茶を頼んで来いと言われた。左右を見みながら昼間の店内で皆接客に没頭していたのだ。“女子行員”がお茶を出すというしきたりを知りながらもたまにはいいではないかと思って新入行員の僕はあえてお茶を持って支店長室に入った。結果は想像の通り、お客様も支店長も仰天し、大笑いした。以後この話は長らく、 同僚の話の種になっていた。
 日本では女子社員、女子行員、男子社員、男子行員という言い方がするが、社員なら社員で、行員なら行員で、男女までに区別する必要性があること自身は日本の封建的な社会風土に深く根ざしているものなのである。しかも、この問題は意外と多くの日本女性自身の考え方にあると思う。
2004/03/29(Mon) 晴れ


[ 異文化ショック 上 ]
 三、四年前のある日曜日、僕が以前勤めていた職場の香港現地法人(いまはもう解散した)の社長は休暇のために久々日本に帰ってきて、一緒に食事をしませんか、聞きたいことがあるのだ、僕に食事を誘った。
 社長といっても、本社では部長クラスのかたで、地場では最大手とはいえ、海外とはあまり縁がなかったせいで、部長も香港には新婚旅行以来と言っていた。勿論、驚きの連続だったようだ。
 中にはひとつ、女性の社員にお茶を頼んだら、雇用契約書にそのような担当業務を記載していないという理由できっぱり断られたという話があった。
2004/03/28(Sun) 晴れ


[ Passion パッション 受難 ]
 昨日、仕事を片付けて家に着いたのは9時を回ったところだった。夕飯を作って食べ、風呂を上がったとき、すでに時計が11時を回った。
 「連載日記」を仕上げたときはちょうど12時だった。本来、自己学習の時間だが、昨日はなぜか無性にパゾリーニの『奇跡の丘』を見たくなった。以前、BSから採ったものでもうテープが擦り切れるほど見たが、2時就寝までの2時間はやはりそれを掻い摘みに見ることにした。
 ベツレヘムの大工ヨゼフの婚約者マリアは、聖霊によって懐妊し、イエスを産んだ。
 成人したイエスはヨハネの洗礼を受け、神の子として人々を救いに導こうとしていく・・・。
 『Il Vangelo Secondo Matteo』(『奇跡の丘』)はイタリア映画界の鬼才、Pier.Paolo.Pasolini(ピエル・ポロ・パゾリーニ)による新約聖書「マタイによる福音書」の映画化で、台詞は「マタイによる福音書」のテキストをほぼそのまま引用していた。
 主演者はすべて素人でキリスト役のエンリケン・イラソキは当時学生だったらしい。年老いたマリア役でパゾリーニの母スザンナが登場する。
 これまでのキリスト生涯を描く作品と違って華美な装置やドラマティックな演出も一切加えず、きわめて聖書に忠実キリストの実像に迫る一本だった。
 主観を排した真摯なキリストの物語をつく上げることができたのは無神論者、マルクス主義者のパゾリーニであったからこそかもしれない。
 作品は1964年ウェネチア国際映画祭審査員特別賞・国際映画批評家連盟賞受賞だけでなく、国際カトリック映画事務局賞、ヴァチカン(Vatican)までに絶賛されたと伝えられた。
 話は飛ぶが、このごろ、米国ではひとつ大きな話題がマスメディアで賑わっている。
 「ブレイブハート」の監督、俳優メル・ギブソンが12年の歳月をかけ、約30億円という私財を投じて完成させたキリストの「受難」が描かれる『Passion』(パッション)という映画のことだ。
 イバラの冠をかぶらされ、重い十字架の横木を背負い、ゴルゴダの丘で両手両足を釘打ちされた十字架刑の事実を忠実に映画化したこの映画はその凄惨さゆえに全米ではR指定となり、ローマ法王をも巻き込んでの論争に発展、公開前にもかかわらず、世界中のメディアがすでに連日報道されているのだ。
 その作風を巡って一部のユダヤ人団体からキリストの死の責任をユダヤ人に押し付けるもの(反ユダヤ主義の根源問題)であるとして、強い非難を浴びていたなかでローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の要請でヴァチカン試写会を行われた。
 試写会を終え、教皇は秘書に「その通りだね」といった事を伝えられ、つまり、映画がキリストの磔刑をほぼ正確に描いている事を認めたのだ。したがって今年の2月25日、キリスト教カレンダーにおける「灰の日」に全米公開に辿り着いた。日本公開は6月に予定されている。
 また、一昨日の25日、米テキサス州で、この映画を見た殺人犯が、警察当局に自首していたというニュースもあった。
 「フォートベンド郡保安官事務所の関係者によると、犯人の男(21)は今月9日に出頭し、妊娠させた女性(18)を殺害したことを自供した。女性は当初、自殺したものとみられていた。
男は犯行を友人に告白するとともに、「パッション」を見て深く反省、罪のつぐないを求めて自首に至った。
 男は女性と別れたいとの身勝手な動機で、犯行に及んだとしている。」
2004/03/27(Sat) 晴れ


[ 日本人と中国人は、今や庶民同士が袖擦り合って生活する時代 ]
「中国情報局」というウェーブサイドに面白い文章(作者:田中則明)がありますので転載させていただきます。サイド住所は下記のとおりです。題は当文章から一句を取ってこちらでつけたものです。
http://forum.searchina.ne.jp/

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 日本人と中国人は、今や庶民同士が袖擦り合って生活する時代を迎えている。日中交流史上、これは極めて画期的なことである。
 日本の大都市で電車に乗れば、あちこちから中国語が聞こえて来る。同じ職場で日本人と中国人が机を並べることは全く珍しくなくなっている。或いは、お互いが顧客になったり売り手になったりと、その関係も複雑化して来ている。或いは、日本の観光地にも一般の中国人が訪れるようになって来ている。相互往来は、日増しに高まっている。
 なぜ、これが画期的だと言えるのか? それは、従前は、日本人と中国人の庶民レベルの行き来というものが少なかったからである。長く深いお付き合い一般に信じられている日中交流史をつぶさに調べてみると、庶民レベルのお付き合いが左程行なわれていなかったことが分かって来る。
 まさに「一衣帯水」、ドーバー海峡を挟むイギリスとフランスのように早くから王侯貴族から庶民に至るまで直接交流する機会があったのとは対照的なのである。
 その証拠を一つ挙げよう。日本語に「ちんぷんかんぷん」という言葉があるが、ほとんどの日本人はこれが大和言葉、ないしは日本固有の言葉だと思っている。しかし、中国語を「音」で学んでみると、「tingbudong kanbudong」という中国語がその語源であることに気付く。中国語の意味は、「聞いても、見ても分からない」という意味である。ことほど左様に、日本人は、生きた中国語の発音を長いこと耳にする機会に恵まれてこなかったのである。つまり、お互い会話をすることがなかったのである。
 今、日本人と中国人の距離がグッと縮まり、直接会話をするチャンスも急激に増えている。お互い、今まで神秘のベールに包まれていたものが、かなりはっきりと見え始めている。(作者:田中則明)

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2004/03/26(Fri) 晴れ


[ 中国人の理想と現実のバランス感覚 ]
 ケ小平のもっとも有名なコトバは「黒い猫だろうが白い猫だろうが、ネズミを取れる猫がよい猫だ」という。一方、彼は「社会主義の堅持」などの四つの原則を中国の政治方向性として掲げている。彼の心の中でおそらくそれが矛盾していなかったと思う。そして私も含めて大多数の中国庶民たちはそれが矛盾しているとは思っていない。

 昔、中国人は自転車通勤が多かった。勤め先の役所や工場の門を入るとき、必ず片足をはずして降りるしぐさをするのだ。降りないのだが、これで、降りて受付に登録したことになるのだ。あの文化大革命の嵐のなかに、ありとあらゆる規律と規制たるものが破壊されてしまったが、しかし、なぜか、それだけは変わらなかったようだ。

 中国人の理想と現実のバランス感覚、理想を掲げながらあくまで合理性を求める中国人の姿はこの一見、何の関わりもない二つの話から如実に物語っている。
2004/03/25(Thr) 晴れ


[ 【中国進出企業視察の旅】 ]
 【中国進出企業視察の旅】を企画しました。時期は今年の8月なのですが、いまは公募中です。詳細についてはhttp://www.3km.co.jp、または03-3563-2570のチャンまでにお問い合わせてください。
 このツアーは三つの特徴があります。
 @3KMの創案者――土屋公三氏が参加する予定なので3KMに関する氏の思いを直に聞くことができます。
 A一通り中国を知ることができます。西安は中国の古都、北京は中国の政治の中枢地、上海は中国の現代と未来を象徴する都市であります。この三つの都市への訪問は、過去から現在までの中国に対して一定の認識ができるのではないかと思います。
 B中国に進出している日本企業の現在が知ることができます。これから中国と関わりたい方にとって今回の視察はその第一歩となればと願っております。したがって具体的なご関心をお持ちになる分野、業種などがあれば、申込時におっしゃっていただければ個別に対応することができます。
 昨今、良くも悪くも中国はしばしば話題に上っておりますが、しかし、それは所詮他人から見た、聞いた中国なので、「百聞は一見に如かず」、ちょっと陳腐な言い方かもしれませんが、やはり、自分の目で、自分の手で見ておかないと何も始まらないと思います。ぜひ、積極なご参加をお願いします。
2004/03/24(Wed) 雨


[ Recovery  ]
 パソコンがダウンになりました。どうもウィルスに感染されていると教えられました。このごろ、何度もあったことで「どうしてですか」と聞きましたら、カスタマーの担当者は「たぶんウィルスが潜んでいて知らないうちにまた出てきたんです。」という答えが返ってきました。思わず「機械のくせに」と噴出しました。
 『フィラデルフィア』というアメリカ映画がありましたが、主人公の弁護士ミラーがクランヤントへの口癖はこうでした。「おれが六歳の子供と思って分かりやすく説明してくれ」と。大変好きなコピーです。
 カスタマー担当者はおそらく僕との対話の中で僕がまったくなどっ素人だと察知しましたので半ば諦めたから、ああいうふうに説明してくれたかもしれません。いずれにしてもなかなか気の利いた説明でした。やはり難しいものを難しく説明するのは能ではないと思います。
 難しいものを難しく説明するのは本人自身がまだその本質を完全に理解していない症候だと、嘗て僕の大学の先生はそう言いました。難しいことを分かりやすく説明する作家がいます。阿刀田高の実存主義における説明は本当に天下一品で、難しいといわれる哲学の理論をあんなに分かりやすく叙述する文章は見たことはありません。
 難しい物事を分かりやすく説明することはたやすいことではありません。それは物事の本質に対して十二分の理解がないとできないことです。近年、テレビのニュース番組でニュースを分かりやすく説明しようとドラマ風作り(俳優を使ってニュースを再現する)の手法が蔓延っていますが、それはただニュースの内容を単純化するだけのことで、“わかりやすく”どころか、ニュースを歪む危険性すらあります。
 話は脱線しましたが、結局、パソコンをリカバリー(復旧)しなければ、元の状態が戻れないとの結論でした。パソコンは簡単にリカバリーができますが、人生のリカバリーは
 たやすいことではありません。それは勇気と意志が要ります。第一歩はまず自分のことを分かりやすく知ることだと思います。
2004/03/23(Tue) 曇り


[ 中国の外食事情二、三 ]
 一昔、外で“きちんと食事をする”ことは中国ではきわめて稀だった。結婚披露宴などの特別の行事以外に、外できちんと食事を取ることは大多数の中国人にとっては贅沢なことだった。屋台、町の食堂などで「陽春麺」(手打ちラーメン)、「冷麺」、「ワンタン」、「生煎」、「水餃」「煎餃」などの軽食をとることは食文化を大事にする中国人にとっては“外食”とは言えない。中国人にとっての“外食”は “キチンと食事をする”、つまりdinnerのことである。
 最近、ある消費者調査によると、生活が小康水準に従って外食は中国人の食生活の中で普通となった。月に外食の割合がもっとも多いのは上海で、その次は北京、広東という順である。外食を積極的に取る年齢層はだいたい20代から30代までの若い人で、平均月収が8000元〜9000元前後にある、いわゆるもっとも稼ぎがいい世代の人が多い。一食につき平均消費単価は20元から50元前後。食事嗜好は中華料理が50%、フランス料理が40%、残りの10%が日本料理、インド料理などである。
 外食の理由の第一位に上げるのは「手間が省ける」とのことで、レストランを選択する基準は「衛生状況」、「味」、「価格」との順である。
2004/03/22(Mon) 曇り


[ 曹操の「招賢令」 下 ]
 曹操は天下を平定するには何より人材だと思い、しばしば「招賢令」を発して人材を求めた。
 紀元210年、赤壁敗戦の2年後、曹操は次のような「招賢令」を出している。
 「昔から創業の君主にしても中興の君主にしても、みなしかるべき人材の輔佐によって天下を治めたものである。その人材であるが、こちらから出向いていかなければ、見出すことはできない。求め得ないのは、こちらから積極的に求めようとしないから。
 天下がまだ平定されていない今ほど、人材を必要とするときはない。
 もし、清廉な人物でなければ登用できないというのなら、斉の桓公はどうして覇者になれたであろうか。現代でも渭水のほとりで釣をしていた太公望のような人材が居ないわけではあるまい。
また、兄嫁と密通したり、賄賂を受けたりしながら魏無知に見出された陳平のような人物が居るかも知れない。
 どうか、私のために埋もれている人材を推挙してほしい。才能さえあればいいのだ。そのような才のある人なら早速にも登用するであろう。」
 つまり、現代風に言うと、欲しいのは仕事ができる人間だ。人柄や人格などはどうでもいいのだ。
 文中に触れた陳平とは漢の高祖――劉邦の謀臣で、いろいろな策を以て劉邦の危地を救った漢創業の功臣でもあった。ところが兄嫁と密通したり、賄賂を受けたりして陳平の評判が甚だ悪い。魏無知が漢高祖劉邦に陳平を推薦したとき、劉邦はそのことを魏無知に問いただした。しかし魏無知は「漢に必要なのは、彼の能力であって、彼の人柄や行いはどうでもよいではないか」と答えた。曹操はそういった例を挙げて自分が望んでいる人材像を人に示す。
2004/03/21(Sun) 晴れ


[ 曹操の「招賢令」 上 ]
 曹操が英雄と見るか、奸臣と見るか、かなり意見が分かれている。中国では多くの人びとはやはり曹操を奸臣と思っているだろう。
 そのひとつは京劇のなかでの曹操はその隈取りが「白臉」(白い顔が白塗り)であって「紅臉」(顔が赤塗り)ではないのだ。
京劇の隈取は登場人物の性格をステレオ化にするもので赤塗りが忠義、正直などの象徴、逆に白塗りが不義、陰険、老獪を意味する。白塗りの曹操、赤塗りの関羽。
曹操が嫌われたのはおそらく彼が天下を取るためには手段を選ばずというところだった。
 このようなことがあった。
2004/03/20(Sat) 雨


[ 「西安碑林博物館」の拓本 ]
 昨年、中国西安へ“視察旅行”に行ってきた。何十回も西安に行ったことがある僕がなぜ、西安視察旅行の羽目におちたか、ここではひとまず省こう。西安ではみなさんが感心しているものが兵馬俑のほかに「西安碑林博物館」である。
 「西安碑博物館」は約千枚余りの碑石が展示され、漢から清までの著名な書家たちの精華を収蔵している。碑石から採った拓本は書の鑑賞・手本にしても、歴史研究にしても大変価値がある資料である。 拓本とは、金属、石、木などに刻まれた文字・文様を、墨を用いて紙の上に写し採ったものである。拓本の技術は、いつ頃から始まったかは定かではないが、中国で始まったことは間違いないと言われている。
 拓本は先ず鑑賞のために採られて使われるのである。
 名筆家といわれる人の手跡は、その文字そのものが鑑賞の対象になり、人の手本ともなる。肉筆の書は場合によってその1点しかなかったので、より多くの人びとが鑑賞できるよう、考え出したのはこの複製の方法である。これがあればいくらでも書の複製ができるのだ。
 しかし、拓本は鑑賞、手本として用いられるだけではない。史書を補う歴史資料として重要な役割を果たしている。また、文字研究の資料としても貴重な存在である。
 青銅器に刻まれた金文、秦の篆書、漢の隷書などを研究の対象としたのは唐、宋である。
 紙が出現する以前、文字は竹簡、木簡、絹に書かれるか、石に刻まれるか、どちらである。今でこそ竹簡、木簡、絹に書かれた帛書(はくしょ)といったが多く発見されているが、唐、宋の頃には文字資料といえば石刻文字に頼らざるを得なかった。つまり、拓本が必要なのだ。
 日本の拓本歴史は鎌倉時代からである。しかし、拓本が本格的に採られるようになったのは、やはり江戸時代にはいってからなのだ。それは江戸時代、金石文の研究が盛んになったからだった。
 石碑の文字が摩滅し、おぼろげな状態であっても、画仙紙をあて、墨をつけていくと、文字が白く浮かび上がってくる。いくら高性能のカメラが出現しても、対象物に紙を密着させ、文字、文様をほぼ実物と同じ大きさで写し採るという拓本の技術にはかなわないではなかろうか。
 ただ、拓本を取り扱うとき、気をつけなければならないことはある。それは現存の石碑などの中には偽碑、偽銘、模本といったマガイものが混じっていたので真贋の鑑別は高度な知識を要るのだ。
2004/03/19(Fri) 晴れ


[ マリア・カラス(三) ]
 持続的にコンディションで事に挑むのは何もオペラ歌手だけではなく、すべての生業に対しても言えることだろう。ただ難しいのは、状態が悪い場合、欲、遠慮などを退けて潔く“キャンセル”するか、というところにある。時にはそれが大変になることもある。
 時の1958年1月のある夜、マリア・カラスがスカラ座で『ノルマ』を歌うこととなった。当日、大統領を始めイタリアの上流階級の面々も臨席したなかで一幕が終わったころ、喉の不調を感じたカラスはその晩の出演をキャンセルした。結果はそれがオペラ史上最大のスキャンダルとなった。このことでマリア・カラスが何年間においてイタリアでは歌えなくなった結果となった。
しかし、こうであってもマリア・カラスは最後まで自分の意志を貫いた。
 1977年9月16日、マリア・カラスはパリのアパートで54歳の生涯を閉じた。孤独な死であった。しかし、オペラ史上、あれから“カラス前”、“カラス後”ということばが生まれた。
2004/03/18(Thr) 晴れ


[ マリア・カラス(二) ]
 マリア・カラスと親しい関係があったフランコ・ゼフィッレッリの熱い思いを込めたその映画もマリア・カラスの表現力が神から授けたものというより、日ごろのもがき苦みから生まれたものであると言いたかっただろう。
 オペラ歌手は外から見れば華やかかもしれないが、おそらくとても孤独な人種ではないかと思う。 
 話によると、シーズンが始まるリハーサル期間は約六週間、ゲネプロにたどり着いたとき、クタクタの歌手はかなりあるそうだ。それでは最高の状態をもって本番につとめることができない。いかに持続的にコンディションを保つことは歌手にとって至上命題である。状態が悪いとき、いかに欲を抑えて公演を断るか、歌手にとってとても重要だそうである。
2004/03/17(Wed) 晴れ


[ マリア・カラス (一) ]
 昨年、生誕80周年記念として上映された『永遠のマリア・カラス』(Callas Forever)が大変話題になった。改めてマリア・カラスの“崇拝者”の多さに驚いた。もちろん、ぼくもその一人だった。
 カラスの歌をはじめて聴いたのはFMだった。最初、あの雲をかかった、まるでガラス瓶のから出てきたような声にずいぶん戸惑った。とても綺麗とは言えないこの声が時には可憐で時には峻烈で、オペラ歌手がなりがちな喉自慢のところがまったくなく、まるでオーケストラのひとつの楽器のようで響き、その役を完全に声で表現しきている。
 思えば、不思議なことだ。マリア・カラスの最盛期はとても短く、二十世紀の五十年代のはじめのちょっとだけの時期だった。映像がほんのわずかしか残らなかったせいもあってわれわれはほとんどレコードからマリア・カラスを知るすべはなかった。にもかかわらず、われわれはその声の虜となり、僕自身もレコードを聴いていたとき何度もわれを忘れて金縛りに似ているような体験があった。
2004/03/16(Tue) 晴れ


[ 弱いとき ]
 弱いとき、『夜と霧』を読むか、『ドイツ語によるレークエム』を聞くか。特に後者はこのようなコトバがある。
 
 悲しんでいる人たちはさいわいである。
 彼らは慰められるであろう。
           −−−マタイ福音書

 
 種を抱え、涙を流して出て行く者は
 束を携え、喜びの声を上げて
 帰ってくるであろう。
           −−−詩篇
2004/03/15(Mon) 晴れ


[ 「あらゆる知識はやっぱり蜜であった」――ゴーリキー ]
 ロシア・ソ連の小説家・劇作家、『どん底』『母』の作者、のちにプロレタリア・リアリズムの大御所として活躍していたゴーリキーは『幼年時代』のなかでこんなことを書いていた。
 「幼年のころ、わたしはみずから自分を蜂の巣のように想像した。さまざまのなんでもない、ごく平凡な人びとが生活についての自分の知識や思考の蜜を蜜蜂のようにそこへ運んできては、だれでもできるものでわたしの精神を惜しげなく富ましてくれるのだ。しばしばこの蜜はきたなく、またにがいことがあったけれども、あらゆる知識は――やっぱり蜜であった。」
2004/03/14(Sun) 晴れ


[ ドーキンスの『利己的な遺伝子』 ]
 イギリスの生物学者ドーキンスは『利己的な遺伝子』を出版して生物学会に大きな衝撃を与えた。
 「純粋で、私欲のない利他主義は自然界には安住の地のない、そして世界の前史を通じてかつて存在したためしのないものである。しかし私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできるのだ。われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが,利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。」
 氏は遺伝子の目的が自己自身を残すことであり、個体や種の保存ではない、個体とは遺伝子を運ぶ乗り物である、とした。
2004/03/13(Sat) 晴れ


[ 風邪を引いたら、栄養を取るべきか取らないべきか (後) ]
 漢方については詳しくないが、製薬の原料は自然界からのものばかりで当然、物と物との間に相性というのが介在している。体を温めるものと体を冷ますものと一緒に食べたり飲んだりしてはいけないというのはちょうどプラス、マイナスのように帳消しとなり、中和されて効き目がなくなる。
 海産物は漢方の話によれば熱性のある物で、体を温まる効果がある。もともと風引きは体内に熱がこもっているようなもので、それをさらに熱性のある海産物を加えると、体は火の玉になったようなもので、そういうわけで風邪を根治するためには、引いているときは魚などを食べてはいけない、と漢方ではそう解釈しているらしい。
 漢方を取るか、西洋医学を取るか、それは好みのことではないだろか。ただ、個人的には現代社会の生活においては漢方医学に対して批判的な吸収はひとつの選択肢だと思う。
2004/03/12(Fri) 晴れ


[ 風邪を引いたら、栄養を取るべきか取らないべきか (中) ]
 大人になって始めては外祖母の話が基本的には漢方医学の考え方から来たものだとわかった。
 漢方系風邪薬の代表格はおそらく『板藍根感冒沖剤』であろう。日本の薬局でも売られている。その使用説明書にはかならずこの薬を飲んでいる間に「滋補品」と同時飲用は禁物、という表示が書いてある。「滋補品」とは、栄養補助剤などのものを指すことであるが、風邪薬と一緒に栄養剤を飲んではいけない、とのことである。
2004/03/11(Thr) 晴れ


[ 風邪を引いたら、栄養を取るべきか取らないべきか (前) ]
 幼いころ、風邪を引いているとき、栄養を取ってはいけない、と外祖母に言われた。特に海鮮のものは禁物。理由はわからなかったが、大好きな焼き太刀魚を食べられなかったので、ずいぶん寂しい思いをした覚えがある。
 ところが、幼馴染の李君の母親は風邪を引いたらいっぱい栄養を取りなさい、と言った。李君の母親は小児科医で医者が言うことは間違いがないだろう。
 しかし、どうして外祖母があんなことをいうだろう。疑念は解けないままで大人になったのだ。
2004/03/10(Wed) 晴れ


[ 南北戦争には中国移民がいた! ]
 今年の秋、中国移民にまつわる一本のドキュメンタリー映画がアメリカで上映されるそうだ。南北戦争(江戸時代にあたる)に参戦した中国移民の話。アメリカ市民権を認められなかった彼らの存在はこれまで一部の歴史家以外にほとんど一般のアメリカ人には知られていなかったのだ。
 このことははやくも、シリコンバレー(中国系、インド系の選挙民が多い地域)を基盤とする日系三世のHONNDA上院議員に注目され、これらの中国移民に市民権を与える政治キャンペーンを目下展開しているそうだ。
 亡くなった人に市民権を与えることは他の国のひとびとにとっては奇異なことに思われるが、アメリカではごく普通のことらしい。直近のイラク戦争で亡くなった中南米出身の兵士に市民権を与えたのはその一例である。
 アメリカでは、普通、永住権にあたるグリーンカードを得た後、アメリカ市民権を取得するのは更に多くの年月を要するが、服役すれば、その期間が短縮されるそうだ。そういうわけで、多くの移民たちが早く市民権を得るために米軍に志願するのだ。
2004/03/09(Tue) 晴れ


[ 去年のある世論調査 ]
 昨年、「中国サーチナ」の上海支社「上海新秦信息諮詢有限公司」が行ったオンライン調査で、“中国の一般消費者”は日本に親しみを「強く感じている」、「感じている」があわせて12%にとどまった。この調査は中国全土の18歳以上の一般消費者、男女5000人から有効回答を得た(2003年12月11日から12月30日までに)という。
 13億人に5000人、割合から見れば論に取り上げる筋ではないが、ただ日本の中国に対するイメージの変化と同じに、中国の日本に対するイメージもずいぶん変わったという感がその調査から分かるのではないか。
 親しみを「あまり感じていない」は23%程度、「全く感じていない」は21%に達している。親しみを「感じていない」ひとは4割程度に達した。逆に「親しみを感じている理由」としては、「ファッションや漫画、ゲームなどの影響」が20%近く。「日本は中国に対して友好的と思うか」との問いでは、「非友好的である」との回答が45%以上になっている。
2004/03/08(Mon) 晴れ


[ 中国近代史における反儒教運動「五-四運動」「新文化運動」 ]
 二十世紀初頭、孫文による辛亥革命が成功し、これまでの王政政治の根幹と為した孔子孟子思想は当然標的とされ、批判を受け、否定されていた。「白話文運動」(中国の言文一致運動)、「五-四運動」「新文化運動」(また五-四文化革命運動ともいう)の根幹は「打倒孔家店」である。
 「五-四新文化運動」は近代中国の出発点であり、今日の中国の原点でもある。江沢民は言った。「毛沢東は新中国を作った。ケ小平は中国に新しい生活をもたらした」。毛沢東もケ小平も皆「五・四新文化運動」の申子であった。

 「五-四運動」―――1919年5月4日、北京に起こった学生デモ隊と軍警の衝突事件に端を発した、中国民衆の反帝・反封建運動。ヴェルサイユ講和会議において日本の山東利権を承認していた民国政府の態度を不満として起り、全国的大衆運動に発展した。(広辞苑)

 「新文化運動」―――1916年〜1921年のおよそ五年間、五-四運動を中心に展開された中国の文化運動。儒教的・封建的な旧制度・旧文化に反対して陳独秀・胡適・魯迅らが提唱、反儒教運動・白話運動などを中心に、民主主義と科学精神とを標榜する新文化の樹立、社会の近代化を推進。反封建的性格を持ち、五-四運動の原動力。新文化運動ともいう。(広辞苑)
2004/03/07(Sun) 晴れ


[ 儒教思想についての雑感 其の九 ]
 日本では「君は君たらずとも臣は臣たれ」。君主の無道は、それを補佐する臣が君主の賢明をおおいかくし、十分補佐しないからであって君主自身の問題ではないとされた傾向が多いようだ。特に、神道によれば「万世一系」の天皇は絶対的な存在で、臣民は天皇に対して一切の文句を捨てて「承詔必謹」だし、ただ絶対服従するだけで、忠はすなわち孝、孝はすなわち忠、もし忠孝両全をしない場合、ためらうことなく孝を捨てて忠を取る事が美談とされている。つまり、中国の儒教思想における義の相対性に対しては、日本では一方的な忠誠を要求されるようだ。
 儒教がこのような日本的な変貌は今日でも、日本の社会生活に影響を与えつづけている。そして、中国への企業進出にあたり、遭遇したさまざまな戸惑いも根底にはそのような基本的な相違があったからではないか。わたしの持論だが、善し悪しの議論はナンセンスである。肝心なのは如何に同じようにさせるかではなく、如何に違うか、という点において十分認識すれば新しい道が開くのではないか。
2004/03/06(Sat) 晴れ


[ 儒教思想についての雑感 其の八 ]
 儒教の日本的変化は主として「仁」に対する「忠」、「孝」の観念における違いにある。
 『論語』によれば、孔子の道は「忠恕のみ」とされている。忠恕とは、良心を偽らないこと、人に対する思いやりの心ということである。忠という字は口と心とが一本に貫かれている。つまり、うそ、偽りの無い心と口、したがって言行一致とのことで、自分をも他人をも偽らない真心ということは忠であり、決して主君だけに対する精神ではないものである。
 さらに、中国の儒教では、君臣関係というものは“君臣の義”と定めて、君主と臣下とが互いに義を守り合うことが要求される。一方的なものではない。『孟子』には「民を基とす。君は末なり」、「君、君たらざれば、臣、これを見ること国人の如し」、「君の臣を視ること土芥の如くならば、臣の君を視ること寇讐の如し」、また、『呂氏春秋』には「君、尊しといえども、白を以て黒となさば、臣、聴く能わず。」と載っている。つまり、君主が無道ならば、もはや君主とは認めない。悪徳君主を追放し、征伐してもよい、殺害さえ認めるという「易姓革命」思想は儒教の「君臣の義」の根幹にある。逆に主君は良く国を治めれば臣はこれを君主として尊敬し、主君についていく。主君と臣下との両者はこのような「義」によって結ばれるべきのものでそれ以外には「忠」は存在しない。この思想は裏返しすれば、きわめて近代の契約説的で合理的、今風に言えばドライな関係である。
 そして「忠」よりもっと大事なこと、「仁」の一とするのは「孝」である。中国では、「孝悌こそは仁の基本である」。たとえば、“父母の生存中は遠くへ行ってはならない”“親が死んだら三年間の喪に服すべきである。”“身体のすべては親からいただいたものだから、これを大事にする事は孝の始まり”などなど。老いた両親をみるため、戦場から逃げ出したひとのことを美談として語りつづけている。清の政治家・思想家曽国藩(ソウコクハン)が親の死を聞いて総司令官の任を放り出して戦場から帰ったという美談はその一例である。つまり、主君と親、家族との二者択一を迫れたら、主君を捨てても親、家族を取るのが人の道で、この思想はいまでも中国では支配的で、人々の国家、社会、会社に対する基本的な考え方になる。
2004/03/05(Fri) 晴れ


[ 儒教思想についての雑感 其の七 ]
 しかし、博士の家が徐々に固定し、教える内容も同じことを繰り返す“祖述する”となると、貴族の専横、腐敗と相俟って、儒教自身もただ解釈学問と化し、時の仏教の興隆に押されて精彩を無くした。
 この沈滞した儒学に活を入れたのは鎌倉初期(十三世紀初頭)の朱子学の伝来である。朱熹(1130〜1200)は中国宋の理学の大成者で、彼の学説は主として禅僧の手によってもたらされ、禅の補いの役割を果たした。禅僧達のなかに仏典と儒学を折衷した者が多かった。
 儒学が仏門から独立したのは十六世紀の江戸時代だった。儒学を官学として不動の地位を確立されたのは徳川幕府である。
江戸時代の儒学の特徴は仏教を排撃して国家主義的な神道と結びついたことである。天皇絶対、日本が神国だ、という思想の故に、幕末の儒学者は、洋学をただの技術としか認めず、精神面はあくまで儒教の教えであるべきだと云う“日体西用”の立場をとった。この現象は中国清朝末期にも“中体西用”を唱える人が多かったということを考えると大変意味深いなことである。
 明治以降、日本は西洋文明の摂取にあたってもその精神面である個人の尊重、自由平等、デモクラシーの思想を取り入れず、むしろ危険視して弾圧する方針を取り続けた。このような物質文明と精神文明との乖離は日本をいびつな発展に導き、多くの封建的、前近代的、非人間的な諸矛盾を抱えたまま、第二次大戦に突入させたわけである。
 儒学、儒教の日本での変貌は今日の日本社会にも多くの影を落とし、日本人を束縛していると思う。そのことを思うと、1973年(昭和48年)に訪中した西園寺公一氏に対するケ小平のあの発言(中国は日本へ、よけいな物をふたつ輸出した。その一つは儒教で、他のひとつは漢字だ)はとても意味深いものである。
2004/03/04(Thr) 晴れ


[ 儒教思想についての雑感 其の六 ]
 しかし、博士の家が徐々に固定し、教える内容も同じことを繰り返す“祖述する”となると、貴族の専横、腐敗と相俟って、儒教自身もただ解釈学問と化し、時の仏教の興隆に押されて精彩を無くした。
 この沈滞した儒学に活を入れたのは鎌倉初期(十三世紀初頭)の朱子学の伝来である。朱熹(1130〜1200)は中国宋の理学の大成者で、彼の学説は主として禅僧の手によってもたらされ、禅の補いの役割を果たした。禅僧達のなかに仏典と儒学を折衷した者が多かった。
 儒学が仏門から独立したのは十六世紀の江戸時代だった。儒学を官学として不動の地位を確立されたのは徳川幕府である。
 江戸時代の儒学の特徴は仏教を排撃して国家主義的な神道と結びついたことである。天皇絶対、日本が神国だ、という思想の故に、幕末の儒学者は、洋学をただの技術としか認めず、精神面はあくまで儒教の教えであるべきだと云う“日体西用”の立場をとった。この現象は中国清朝末期にも“中体西用”を唱える人が多かったということを考えると大変意味深いなことである。
 明治以降、日本は西洋文明の摂取にあたってもその精神面である個人の尊重、自由平等、デモクラシーの思想を取り入れず、むしろ危険視して弾圧する方針を取り続けた。このような物質文明と精神文明との乖離は日本をいびつな発展に導き、多くの封建的、前近代的、非人間的な諸矛盾を抱えたまま、第二次大戦に突入させたわけである。
 儒学、儒教の日本での変貌は今日の日本社会にも多くの影を落とし、日本人を束縛していると思う。そのことを思うと、1973年(昭和48年)に訪中した西園寺公一氏に対するケ小平のあの発言(中国は日本へ、よけいな物をふたつ輸出した。その一つは儒教で、他のひとつは漢字だ)はとても意味深いなものである。
2004/03/03(Wed) 晴れ


[ 儒教思想についての雑感 其の五 ]
 律令制定によって学制が確立すると、その中心的な学問として儒学が正式に採用された。大学寮ではこれを明経(めいけい)道と称して『易経』、『周礼』、『儀礼』、『礼記』、『詩経』、『書経』、『左伝』という七経と、『論語』、『孝経』の九経典を教授した。この明経道を説く者のうち、最も優れたものを博士と称し、後には菅原、清原の両家から多く学者が輩出したそうだ。
2004/03/02(Tue) 曇り


[ 儒教思想についての雑感 其の四 ]
 日本に儒教が入ってきたのは三世紀末の頃だと言われている。百済の王仁が『論語』と『千字文』を持ってきた時とされているが、大陸との交通がそれ以前から行われていたわけだから、実際には早かっただろう。
 儒学は学問として日本に確立したのはずっと後のことであった。
 始めて明確に儒教精神を盛り込んでいるのは聖徳太子の「十七条憲法」や「冠位十二階の制定」である。

2004/03/01(Mon) 雨